1999年の茶道雑誌の注目記事です
1月
昨年の光悦会は、晴天に恵まれ気持ちのよい会だったようです。今月号ではカラー頁のほとんどが、そのときのすばらしいお道具を掲載しており、本文の茶会記と照らし合わせてご覧になると、とても参考になります。私の好みを言わせていただくなら、ノンコウの赤楽茶碗「柴の庵」や、光悦茶碗の「青苔」はとてもステキで手に取ってみてみたいものです。柴の庵は、その形が長次郎ほどきまじめではないのですが、やわらかさとともに自分の意志をもった茶碗のように見えます。色合いも窯変も美しく夕日に映える庵のように感じられます。一方青苔は、軽く掻き落として地肌が透いて見えるような味わいの黒茶碗で、一見威風堂々のようでいて、飄々として何者にもとらわれず世の中を渡っていく虚無僧のような軽さも感じられます。
このほかにも、いろいろなお道具について多くの頁をさいて説明されています。
草人木は寛永3年(1626年)に書かれた茶書で、茶の字を艸、人、木に分けて析字として名づけたものとして有名だそうです。筆者は不明のようですが、内容としては実用性を重んじ、実際にお茶席に招かれた場合や、席を設けるときなどに心得るべきことを具体的に書いた、今でいうHow toもののようです。このころでもこういう書が人気を得ていたと聞くと、なんだかほっとしませんか。時代的には小堀遠州のころで、ときおり文中に見える作者の考え方というものも、納得できるものがあります。たとえば「茶の湯を身分高くよいお道具を使った上から、次第に下がった中、下と三段階に分類する古い考え方を批判して、そのような形式にとらわれるのではなく、茶の湯をよく知り、創意工夫があることが大切と主張しているそうです。これなど、今でも通用することではないでしょうか。
2月
巻頭のカラー頁でたっぷりと沢山のお釜を見ることができます。大西家は約400年前に初代浄林が、京都の釜座(かまんざ)に所属して以来、釜座の伝統を継承する唯一の家であり、千家十職の釜師でもあります。初期の釜作りの地として栃木の天明と、福岡の芦屋といわれていましたが、京釜は土地の名ではなく、作者名で呼ばれる独自のきれいさびの京釜の世界をつくりあげました。
お釜はお茶席の中でも中心となって座を引き締める核となるものですが、水指や、お茶碗のような華やかさはなく、拝見も形だけになってしまう場合もありるかもしれません。でも何回もいいものを見ていると言葉では言い表せない、良さがわかってくるものです。その意味でも、このようなお釜中心の美術館には、是非一度行ってみたいものだと思います。
琉球でのお茶というテーマと、筆者が珍しく海外の方ということで取り上げてみました。筆者は沖縄県立芸術大学の教授でいらっしゃいます。
琉球での喫茶の文化は日本の茶の湯を追う形で500年の歴史をもつものの、現存する資料がほとんどないのが現実とのことです。その理由は、第2次世界大戦の沖縄戦の戦火で消失したこと、またこの風習を維持してきたのが大和と交流の深い上流階級の人の間にとどまっていたため、明治の皇民化政策による氏族の零落によって資料が散逸してしまったこととです。いづれにしても、このようなところにも、沖縄と大和の歴史が色濃く残っていることに驚くと共に、悲しく残念な思いがします。一方で、そのような厳しい状況下にもかかわらず、外国の方が研究を重ねてくださっているということに感謝したいと思います。琉球では京都と密接な連携を持っていた禅宗のお寺が茶の伝達の主力となっており、初めは利休によるわび茶ではなかったようですが、次第に堺衆との交易などを通じて茶の湯が浸透していきました。堺出身の喜安入道が琉球王に仕え、利休流の茶の湯を伝えた、琉球王朝の中で次第に独自の茶の湯文化が花開いていったようです。
3月
長い間楽しませていただいた,裂のはなしが30回の本号をもって終了になります。様々な裂そのものについてはもちろん、その裂にゆかりのお話をいろいろと合わせて興味深くお話くださいました。その最後の記事を緒をもって締められたのも、すばらしいと思いました。
考えてみれば当然ですが、緒を組み上げられて行くとき、お仕覆に緒を通した状態で最後の打留の作業をされるということです。そうでなければ、あのような形で緒は通らないわけですが、写真を拝見して初めて気が付きました。すばらしいお道具を護りつつむお仕覆の世界を覗かせていただいたことを感謝いたします。
施主であるお茶人の様々な思いをこめてお茶室を建造するには、細かい注文に対応する必要があり、そのための参考書として、数寄屋工法集が貞亨3年(1686年)に京都の伊藤景冶によって版行されました。茶室各部の細かな寸法や露地設備、炉縁、花釘にいたる細部の工法についても記載されています。
こういった先人の努力により茶室の建築は充実していったわけですが、茶室という茶の湯専用の空間はその発達の流れとして次ぎのような要素がひとつに収斂していったものとおもわれます。
1.飾る場所としての茶の湯の間
2.人の集まる場所としての会所
3.閑居する場所としての庵
茶室としてのこれらの機能を手際よくまとめ、意匠にすぐれ、しかも目立つことのないように、それが「茶の湯の心意気」が感じられる空間、すなわち良い茶室ということになるようです。
裂というものに絞っていろいろな角度からの興味深い内容が満載だったシリーズが終了してしまったと思いましたら、次に竹のはなしが始まります。茶道の門外漢と自称されている龍谷大学の稲葉昭二先生ですが、黒田家との深いお付き合いの中で、数多くの類書とは違った観点から、竹細工の魅力に迫ってくださるようです。楽しみですね。
大和文華館は、近畿日本鉄道の前身、関西急行鉄道の社長種田(おいた)虎雄が京都、奈良、伊勢という土地柄を考えるとき、ここを訪れる国内外の訪問者のために、文化財の必要性を感じて、昭和21年に財団法人として設立したものです。美術館であると同時に研究機関として発足し、「大和文華」という美術作品の研究および鑑賞に関する定期刊行物を現在にいたるまで、100刊を超える号を継続的に発行しています。この美術館のもう一つの特徴として、コレクションがあって開館したのではなく、美術館を開くために美術品を買い集めたということがあります。ここは東洋の美術作品を中心に所蔵していますが、絵画、書蹟、陶磁、漆工と幅広く、バランスのとれた構成になっています。初代の館長、矢代幸雄の方針で、東洋の美術は美しい自然の中で鑑賞されるのが一番とのことで、その立地条件はもちろん、設計も日本建築の伝統と、近代建築の機能性を取り入れたものとなっています。
お軸によく使われる{無事是貴人」という言葉があります。「たいへん読みやすく、一見すぐに意味のわかりそうな語でありますが、さて、となるとはっきり意味の取りにくい言葉であります」と堀内先生に言っていただくと、なんだか緊張が解けてほっとします。そう、お軸の内容はわかったようで、わからないものが多いのではないでしょうか。
{無事是貴人」でいう無事とはいわゆる無事安全ということではなく、宇宙の全体、隅から隅まで境界も区別もない状態をいい、このことこそが、聖なるもの、言ってみれば仏様であるという意味のようです。と、聞いてもやっぱり凡人には、わかったような???状態です。
茶道というと話題がどうしても茶会記や、お道具の話になりがちですが、今回の懐石の献立についての書は、また違った興味があります。元禄になり、食についても只お腹を満たせばいいのではなく、味覚も視覚も楽しませるような料理屋ができてきた頃、茶湯献立指南が出版されています。その巻頭には、「茶之湯料理は取合を第一とす、たとえば汁をけつかうにする時は、煮物を粗相にすべし」と始まり懐石の基本的な心得が語られています。しかしなにより具体的に紹介されている献立が、今読んでもおいしそうで作ってみたくなります。さらにその素材が現代よりも種類が豊富で、味覚や香りもデリケートで多彩であったのではないかと想像できます。例えば、八寸の「なぶね」は塩鮭を菰包みにしてしばらく置いた物を、薄切りにして酒をつけて焼いたものだそうです。いかがですか。
カラー頁にたっぷりの写真と文章で熊野信仰について書かれています。文章だけでは分かりにくい信仰の山路の様子が写真を通して実感でき、納得の記事です。生意気のようですがこのところ、茶道雑誌の記事がパターン化してしまって、いまひとつ興味が沸かなくなってきていたのですが、この記事は短文の中に熊野詣についてわかりやすく書かれていて興味を覚えました。記紀神話にも登場する死者の国としての熊野が、その重畳たる山並みの自然も相まって多くの修験者よって信仰の山となっていったこと、その修験者が先達となって熊野信仰がひろがり、宮中、特に鎌倉時代の上皇や貴族によってより高められていたっこと、またその道筋に手向けの神として多くの王子が設けられていること、等々。
写真と地図で辿れます。とくに和歌の才能豊かな後鳥羽上皇は28回もこの深山に御幸され、従った貴族が詠進した和歌が熊野懐紙として今日まで伝わっています。
千家三代目宗旦は、千家再興に大きく貢献した人ですが、利休切腹のときにはわずか13歳でした。しかし、父少庵からうけつぎ、茶道の奥深さ、厳粛さを学んでいきますが、宗旦の侘茶の心が沢庵和尚の「禅茶録」に記載されています。
・侘びとは物足らずして、一切我意に任ぜず蹉だする意なり
(侘びとは物が不足して、いっさい自分の思うようにならず、つまづくことをいう)
・侘びの一字は茶道において重んじ用ひて、持戒となせり。しかるを、俗輩、陽の容態は侘びを仮て、陰にはさらに侘びる意なし
(侘びは茶道においては重用され、自戒とされている。ところが、世間の俗人たちはうわべは侘びのように見せかけているが、心底ではいっこうに侘びのこころを持っていない)
・その不自由なるも不自由なりと思う念を生ぜず、足らざるも不足の念を起こさず、調はざるも調はざるの念を抱かぬを、侘びなりと、心得べきなり。
(いくら不自由でも不自由だと思わず、不足していても不足しているとは考えず、ものごとが不調でも不調という念を持たない。そういう状態を侘びというのだと、心得るべきだ)
耳がいたいですね。
茶書としてあまりにも有名な「南方録」について、その著者とされている南方宗啓の存在を示す書簡の解説から始まり、その意義付けについて詳しく語られています。いろいろな観点の考え方があるが、その評価の見解として、次の3つの分類になるということです。
1.偽書であり、無価値
2.利休の秘伝書としては認めないが、元禄時代に成立した優れた茶書
3.最終成立は元禄だが、内容は利休茶の湯を反映した、茶の湯伝書
筆者の見解としては、「南方録」が成立した時期はちょうど利休没後100年にあたり、その間に利休の精神から隔たってしまっただけに、利休への回帰を望み、そのための主張が込められていると考えられる、ということです。
茶の湯の理念を構成する二本柱である、「禅」と「和歌の風躰」を理解するうえで、「山上宗二記」とならんで貴重な書といわれています。
お薄の各服点てに対して、お濃茶の飲み回しの形式を吸い茶とよぶことも、その成り立ちもしりませんでしたので、この記事はとても参考になりました。
その起こりは資料からははっきりしてはいませんが、利休が根本的な精神として「一座平等、一味同心」ということで、貴賎を問わず茶席に同席した者がお互いに同じ味をあじわうということ表すためにそれまで各服点てを行っていたお濃い茶に吸い茶を取り入れていったようです。ただこの方式が一般化していったのには、秀吉が積極的に推進していったことが大きく影響しており、それらはいろいろな資料に表れています。
正直なところ、利休の目指す精神は理解できるにしても、私にはこの成り立ちは秀吉からの拝領といった精神で推進されていったように思えます。お茶が現代の若い方に素直に受け入れられるために、各服点ても見直される方がいいように思います。知人でどうしてもこの飲み回すという方式が受け入れられないという方いることも、また現代という時代ではその理由も理解できる気がするのですが...
私のすみかは武蔵野の面影を残しているといわれる調布なので、この記事をとりあげました。
武蔵野といえば、古くは万葉集や伊勢物語の中で遮る物のない草原のなか野趣豊かな恋い物語りの舞台として多く登場します。こういった武蔵野観は、江戸時代になると美術品に多く取り入れられ、秋草などの文様として親しまれました、江戸における名所として知られるようになったわけです。これは古都京都と比べると名所の少ない新都江戸が、京都と肩をならべるために、あえて古くから知られていた武蔵野を再認識していったという意味が強いそうで、現在の東京の有り様からは想像がつかず、ちょっと面白いですね。
秋季展として、紹鴎・利休・剣仲・織部・遠州の五大茶匠の作られた、あるいは好まれた茶道具が茶道史に沿ってテーマ性豊かに取り上げられています。
「茶会は茶道具の縦糸、茶匠の横糸によって織り出された綾錦」という思いを込めて、各茶匠ゆかりのお茶道具について相互の関連を含めてじっくりと説明されており、展覧会を是非見たくなりました。
紹鴎ゆかりの茶道具は、利休に与えた影響を感じさせます。また利休については様々ありますが、珍しいところでは、桂籠花入れで、これは利休が桂川で漁夫の魚籠をもらい受け花入れとしたものですが、元伯に伝わり、その後相伝の証となりました。そしてなんと忠臣蔵の討ち入りのとき、この花入れが吉良の首の代役となったというのです。今年のNHKの大河ドラマで11月の後半に、この場面が出てくるそうです。また藪内剣仲は紹鴎と利休の両茶匠から侘び茶を継承し、あえて宮仕えをせずその茶風に徹しました。そのあり方をうらやんだ利休からの書面というのも珍しいと思います。
織部はその工芸面の多彩さにもかかわらず、終生1種の花押しか用いず、意外と淡泊な、実直な人物がうかがわれるというのも面白いことです。また遠州ついては、その多岐にわたる茶道具が楽しめるのはいうにおよびません。
今月は美術展が重なってしまいました。でもこの一文は美術展とはいいながら、茶会をコーディネートする席主の思いが伝わる楽しいものです。この展覧会は、口切り、炉開き、名残の茶と、お茶会に少々疲れたところ、気心の知れた茶友に気楽な薄茶を広間で一服差し上げようという設え、ということです。それに沿って、席主の様々な心使いをお道具のお取り合わせ反映させていく、そんな考え方が伝わってきます。もちろん一つ一つがすばらしいお道具ですから、私達が及ぶところではありませんが、たとえ貧弱なお道具でも、趣向をこめた選択ができたら、楽しいお茶席になりそう、そんな思いがしました。
11月
松平家より東京国立博物館に寄贈された墨跡「破れ虚堂」は、元々寛永年間に京都の豪商大文字屋に伝わる名品でしたが、それがある事件に巻き込まれ破れたところから、さらに有名になり、現在では国宝ともなっています。その詳しい顛末について、金閣寺の住職であった鳳林承章が書き残しています。その内容は長くなるのでここでは省略させていただきますが、使用人の恨みを買っての事件でした。しかし事件によってその後有名になり、いよいよ名物と賞せられるようになったということは、ちょっと解せない気もします。
焼き物でも金継が入ったものを好むというようなこともありますが、それは元々が素晴らしいものがたまたま割れてしまったのを惜しんでいるものと考えるべきでしょう。書についても同じだろうと思います。
龍田川というと、奈良の斑鳩町に竜田川という大和川の支流があり、竜田神社があります。しかしこれは新宮と呼ばれていて、本宮はさらに南西に下った大和川流域の三郷町にあります。和歌に多く詠まれている龍田川は本宮に添う大和川のことです。この本宮は、水の神とともに国を支える農耕の守護神、風神を祭っている霊地とされています。そして奈良の都の西に位置する龍田は秋をもたらすと考えられ、紅葉に特別な思いを込められたということです。また龍田山を神格化した龍田姫は織物の神とされ、これらの思いがこの和歌になったとのことです。
「ちはやぶる 神世もきかずたつたがは から紅に水くくるとは」
(不思議なことが多くあったという神代にも、聞いたことがありません。龍田川が水を真紅のしぼり染めにおするなどと)
12月
高価な唐物を尊び、名物を所有できる茶人を本数寄者といい、名物をもてない一般の愛好家を侘数寄者として区別する傾向に対して、利休は四民平等の思想から、新作道具でもその美が「寂」に根ざしているならかまわないと、創作道具を開発しました。しかしその開発に当たっての思想は資料として残ってなく、唯一想像しうる資料として、利休を思慕してやまなかった久保長闇堂が「長闇堂記」に記述されたものがあります。この中で創作道具として、一尺四寸の囲炉裏の炉縁、阿弥陀堂釜、五徳据えの炉釜、今焼茶碗、茶入の代用としての棗といったものを例としてあげています。これらを見ると今ではごく当然として使っているものばかりです。秀吉はこういった道具をたった一度しか使用しなかったようですが、そこで使われたことで、次第に世に受け入れられていくきっかけになったようです。
このような侘数寄が大きく開花するのは古田織部の時代まで、待つ必要があります。
亭主が炉の正面にむいて、お正客とが向かい合ってお点前をする特殊なものですが、一客一亭であったり、特に親しいお客様の場合など、わびたお点前を楽しむものです。ちょっと珍しいのでとりあげてみました。夜咄のなかで、とりあえず薄茶を一服さしあげる場合などにするそうです。親しげでいいですね。