1998年の茶道雑誌の注目記事です

1月

徒然草のことなど−利休の目剣−

利休が非常に感性が鋭く、様々なものの微妙な違いをみわけることができたということが、エピソードとして多く残っています。
 「障子の紙の継目は一分は細し、一分半は太し」
 「棗は漆の滓(かす)をまぜてざっと塗れ。中次は念を入れて真に塗れ」
ここでいう目剣という表現は、道具の鑑定や、批評眼としての目利のレベルではなく、道具を作成する職人の技術についても十分な知識を持つ「プロの眼」をもって職人を指導できる力量をいっています。利休は、茶人として「プロの眼」で、土もの、木もの、金もの、織物などの職人技術のの結集を理解し、評価することで、今日の茶道文化の基礎を築いたということができるとおもわれます。

時空を超える美

来世紀にも華の咲きつづける人の作品を紹介するシリーズです。第一回は華厳宗館長 守屋弘斎さん。掛物と茶碗が紹介されています。
どうしても昔の作品や、その作家を紹介する傾向が強い中で、現代の作品をシリーズでみることができるというのは、大変期待できます。やはり21世紀を意識したとき、新しい傾向の作品を茶道の中に生かしきっている、そんな作家も知りたいですね。

2月

仙崖義梵

仙崖といえば出光美術館と連想できるほど、出光興産創業者 出光佐三氏のコレクションが有名です。氏は単にコレクションしただけでなく、仙崖の禅の精神を日本人のあるべき姿と考がえ、事業の発展も含めて一生を仙崖さんに導かれたと語っていたそうです。その仙崖は法名を義梵ということを、この記事で知りました。
美濃の国(岐阜県)の貧しい家の3男の生まれで、間引きにあるところを近くの寺に拾われ、やがて清泰寺の空印円虚の指導のもと得度をうけ義梵というい名を得ます。仙崖はのちにつけた号です。彼はその強い意志と努力で若くして高僧の名を得ますが、自分が強く望んだ清泰寺住職に当然なれると思ったのになれなかった挫折をきっかけに、学問知識を基盤とした僧侶から、身を庶民の中に沈める雲水となり、やがて消息を絶ちます。やがてまた人々の前に現れた仙崖は悟りを開いており、やがて筑前の名刹でありながら内容の伴わなかった聖福寺の住職となり、鬼となって真の道を示したて直しを成功させました。そういった激しく、また真摯な人生を送った仙崖が、あのような洒脱な書画を多く遺したのは、60才を過ぎそれまでのすべてを栄養に庶民の中にまろやかに生活するようになってからのことだそうです。
そういう人生を知ったうえでカラー頁にある、様々な書画を見るとまた味わい深いものがあります。一見しておだやかでユーモアあふれたものがあるかと思うと、えっ、これも仙崖?と思うほど激しさと力強さを感じるものもあり、なるほどと思います。また改めて出光美術館の仙崖展をみに行きたいものですね。

心の師の文

村田珠光の「心の師の文」というと、古市播磨法師に宛てられた有名な手紙であるにもかかわらず、これを所蔵する京都の平瀬家がめったに公開しないため、目にするのが非常にまれなものだそうです。短いものですが、本文が掲載されています。内容としては、茶道の心得として、茶道の経験が長いものがおごり、初心の人を見下したり、よいお道具をもっているからといってひとりよがりに誇ってはならないというような、今聞いても耳の痛いことのようです。


3月

北村美術館・春季特別展 祭りのころ

この祭りとは、京都、北村美術館の氏神である下御霊神社のお祭りのことで、5月18日に行われます。五月には葵祭りをはじめ、美しい5月を背景に様々にとりおこなわれます。そんな華やいだ気分でこの展覧会が催されているようです。私がとくに興味を引いたのは、釜の話です。この五月を意識すると当然風炉と思いますが、「今回は、夏じたてでありながら炉は塞がず、釣釜で遊んでみました」と書かれています。釣釜として使われたのは、大国栢斎1856-1934)の四方釜で、近代の作品です。不昧公好みの釜を風炉用に縮めて写したものということで、「無一物」の鋳文字が散らせてあり、気分は軽やかです。常には寄付の丸炉に使われていたものを、替蓋とともに鐶がついていたのを、使ってみたくて釣釜として使われたそうです。このあたりの気分が、いかにも5月の開放感と、ルールに硬く縛られることなく、ご亭主の思い入れで構成される、そんなお茶事の心が感じられてみに行きたくなりました。

井戸茶碗 熊川(ウンチョン、こもがい)

熊川(こもがい)というと、昔陶芸の先生に「これをなんと読む?」と問われて、まったくわからず悲しかったのですが、逆にしっかり覚えることができました。高麗茶碗の一種で韓国の慶尚南道産の茶碗ということで、口辺が外に反り、見込みには鏡と呼ぶ茶溜りがあり、高台が大きいことが特徴とされています。でも私は写真でも見ていなかったので実態がつかめなかったのですが、この記事の中に、野村美術館蔵の熊川茶碗の写真をみおることができ、満足しました。これは、井戸に比べるともっと丸まるとして厚地の感じがし、全体にたっぷりとした印象の茶碗です。
この記事は井戸茶碗の故郷を訪ねてということで、韓国の古窯をたずねていかれた紀行記ですが、残念ながら、熊川茶碗を思わせるような陶片等はみつからなかったようです。


4月

富山佐藤美術館・茶の湯名器展−「大正名器鑑」掲載−

お茶道具の名器を記録した書物というと、松平不昧候の「古今名物類聚」が有名ですが、この「大正名器鑑」は、その大正版ともいうべきものです。これを編纂した高橋箒庵は、三井銀行、三越を経て実業家として大成後、晩年の大正末の5年間、この資料編纂に尽くしました。この特徴は茶碗、茶入それぞれ一級品を400点あまり記録し、高橋自身が多くの実物を見聞しそれを記録として残しています。さらに、写真という当時として新しいメディアにより、実物大の映像を残しているのが、非常に大きな価値となっています。

茶書を読もう−山上宗二記


茶書と呼ばれるものの代表的なものとして、南方録、不白筆記、茶の湯一会集、そしてこの山上宗二記があります。この書は、書かれた時期が、利休によって茶の湯の体系がほぼ出来上がった時期であること、また収録内容が茶道具解説、茶の湯稽古、茶室解説、覚書の4部位構成からなる、幅のひろいものであること、そしてなにより、山上宗二が利休の一の弟子を自認し、茶の湯の神髄が盛り込まれていると思えることから、非常に重要視されています。山上宗二は、その強烈な個性から秀吉から追放をうけ、最後は小田原攻めの最中に不興をかって耳鼻をそがれて首を切られたという、悲劇的な最後をとげていますが、それだけに利休の一の弟子として、その教えを伝えるのは自分をおいてはないという考えでこの書をのこしているといわれます。珠光、紹鴎、利休という茶の流れを主張したのも、山上宗二が最初のようです。
この書をはじめとして、約100年おきに
  南方録:武家茶の湯の全盛を過ぎ利休へ回帰の時期
  不白筆記:家元制度が確立した時期
  茶の湯一会集:現在行われている茶の湯の基礎が固まった時期
これらの書が出されているのが面白いことです。


5月

高麗茶碗を語る

高麗茶碗を生産したとみられる韓国の窯跡を昨年見学された諸氏が、今高麗茶碗について語っていられて興味深い内容です。特に驚くのは、高麗茶碗の研究というものが思いがけず進んでいないらしいということです。雲鶴とか、狂言袴といった象嵌の陶器も日本で14世紀のものとされていますが、朝鮮の陶磁史からみるともっと新しく16,7世紀とみられるとのことです。面白いのは、15世紀頃の高麗青磁は大変品質も良く芸術的にも完成度が高くてすきがない感じであるのに対して、その後の紛青沙器は民間用にも多く作られ、おおらかな素朴さをもつようになった、その点が返って茶人に好まれるようになったのではないかということです。
井戸茶わんにしても、制作された窯や、またどういう用途の器であったのかもまだ解明されていようです。
高麗茶碗研究の今後として、科学的分析なども含めて、日韓共同研究の重要性が話し合われていますが、本当にそうなってほしいものです。

山上宗二記−茶の湯理念としての侘数寄を説く

数寄というのは、もともと「好く」が転じたものですが、「物好き」といった言葉に表れるようにた揶揄的な意味を持つようになりました。やがて和歌の世界で数寄について思索を巡らすようになったものの、やや本流をはずれたものとみなされていましたが、和歌からはずれた連歌の人々によって好きの理念が高められて確立していきました。やがて連歌も衰退したとき、代わって茶の湯が盛んになり、数寄といえば茶の湯を意味するようになってきました。
茶の湯における数寄を論評したのが山上宗二記です。
本文の中では随所に数寄ということが出てきますが、ほぼ次のような4種の意味合いで使われています。
   1.好きの意味
   2.茶の湯の意味
   3.茶の湯が目指すべき境地
   4.茶道具を判定する美的基準
この中で特に重要なのは3であり、様々な表現で書かれていますがこれをまとめると、次のようになるそうです。
 ・茶の湯には大名茶湯、目聞茶湯、数寄茶湯がある
 ・この3種類の茶湯に要求される条件のすべてをみたし、かつ志の深い茶の湯者を名人という。
 ・名人はさらに侘数寄を目指すべきである
この侘び数寄の要件が、執心、仏道、歌心、目聞、風躰で、これを満たすことこそが茶の湯の目指す境地ということです。

6月


酒井抱一の夏秋草図


「夏秋草図」は薄をテーマにして書かれた2曲1双の屏風絵ですが、この記事の中にこんな面白いことが隠れていようとは思っていませんでした。
この屏風では左隻の秋図ではすっかり穂が出て野分にさらされた情景を描いていますが、一方右隻では豊かな薄の葉が夕立にうたれそのかげに咲く百合を描いて、夏を表しています。この夏秋草図は、尾形光琳の「風神雷神図の裏面に表装されていたものを、別の屏風に仕立てたものとして知られていましたが、その真偽ははっきりしていませんでした。しかし平成4年にその抱一の直筆で「一橋一位殿の依頼により、光琳筆の雷神の裏に夏艸(草)雨、風神の裏に秋艸(草)雨を銀地に描き、文政4年(1821)に出来上がった」と記された下絵が発見され、証明されました。私が面白いと思ったのは、夏草図は左右の対応だけでなく、表の雷神図に対して裏の夏草図であは夕立にうたれた地上のすすきを表し、野分にあれた秋草図の表は風神図と見事に呼応させ,一双の屏風として完成させていることです。これまで屏風というものをそういった目でみたことはありませんでした。
またこの酒井抱一は播州姫路城主酒井家の次男としてうまれています。江戸の上屋敷、下屋敷とも一橋家と隣接していることもあって、今話題の慶喜にちなむ一橋家より依頼されたものとされています。


大師会茶会記


今年の大師会は4月5,6日丁度満開の桜のもとで根津美術館で開催されました。カラー頁でもみることができるように、美術展でみるような立派なお道具が、実際に生きた形で茶会で使われて拝見できるというのは本当にうらやましく思われます。私は濃茶席の伊賀の耳付花入が赤芽柏と白玉椿とのとりあわせとともに印象的でした。自然釉だと思いますが、かけ分けのように灰釉と窯変した土肌のコントラストが美しく、それに伸びやかに入った赤芽柏がひきたっています。

7月


大阪の祭りと祭釜


大阪の夏祭は「6月13日の愛染さんに始まり、8月1日の住吉さんで終わる」といわれます。今月号はこの大阪の祭り特集で、随所に大阪の夏のむんむんするようなエネルギーが感じられます。
お茶関連の記事としては「天神祭の献茶船」、「祭釜のことなど」があります。
天満宮は、菅原道実を陥れた藤原時平の縁者があいついで変死したことから、菅公の霊を鎮めるためにつくられました。そこで穢れを神鉾に託して大川に流し、それが漂着した地をその年の斎地と定め、船で御神霊を遷座させました。これを「船渡御」(ふなとぎょ)とよびます。江戸時代には、この「船渡御」の際献茶船がでて、神前に献茶する習わしがあったそうです。「船渡御」は昭和13年に中止になったそうですが、ちょっと残念ですね。
また今月のカラーページには、祭釜のちょっと粋な雰囲気のお道具が載っています。

8月


楽焼創生・歴史探訪展


楽は私の大好きな焼き物です。特に長次郎の端整なお茶碗は、一見シンプルで自分でも作れそうにみえるのですが、実際に手捻りで挑戦してみるとその難しさがよくわかります。その長次郎のイメージを大胆に変える作品の写真が掲載されています。カラー頁にある二彩瓜文平鉢は、中国・福建省の三彩の流れを汲む大胆な図柄と、織部を思わせるビードロ。とてもエネルギーを感じさせます。またもう一つは本文のなかに掲載された写真で、獅子留蓋瓦という唐獅子を力強い造形で作り上げたものです。こういった強さを持った長次郎が、利休との出逢いによって、その力を表に出すのではなく内なる茶碗という宇宙の中に閉じ込めていったように思えます。手捻りという手法で、しかも低温での焼成によるやわらかな焼き物、その限界が返って長次郎のエネルギーをやわらかに吸収することができたのかもしれません。


茶の湯漫歩・立花実山


福岡県飯塚市の郊外にある曹洞宗・青雲寺に、南方録を発見したとされている立花実山が葬られています。実山は五郎左衛門重種と称し、黒田家4代光之に小姓として出仕しその後光之が没するまで仕えました。南方録は光之にしたがって江戸に行く途中、その存在を知り重要性を見抜いて筆写して、さらに納屋宗雪の持っていた追加2巻を探し出して全7巻として博多に持ち帰ったといわれています。しかし、現在実存する南方録は実山の自筆本は博多円覚寺に保存されているものの、南方宗啓の自筆本はなく、南方宗啓の存在もあきらかでないところから、南方録は実山の創作、またはいくつかの伝書を編集したものいうのは一般的な解釈とされています。ただ編集したにしても、元本がみあたらないとか、編集したとされる年齢が若すぎるとか様々な疑問は、まだまだ解決できていません。実山自身もも、光之没後黒田家の内紛に巻き込まれて幽閉され、悲惨な最後を遂げています。しかし実山は茶の湯、和歌、漢文にも通じた文化人で、幽閉中に書いた「梵字艸」によってもその素養はしのばれます。

9月


裂のはなし・茶人の好み裂


松屋肩衝は、足利義政に献上された唐物で、村田珠光が拝領しその後奈良の塗師松屋源三郎の所有となって代々受け継がれた大名物です。これに、珠光、利休、古田織部、小堀遠州が仕覆を寄付したkとからも、その価値が推測されます。それぞれ珠光は唐草と竜のはなやかな竜三爪緞子、利休はわびた風情の木綿間道、織部は波間に梅がうかぶ波梅鉢緞子、そして、遠州は唐草に捻じ梅の捻有縁唐草緞子と、その性格をあらわした仕覆です。これらを一度に見ると壮観であると同時に、いろいろな人の手の中を経てきた歴史を感じます。


尾形乾山の花籠図


私が焼き物好きなため、どうしても取り上げる記事が焼き物系に偏ることがあるかもしれません。前にも乾山を取り上げたことがあるような気がしますが、またこの記事を取り上げてしまいました。乾山はご承知のように光琳の弟で、焼き物にも華麗な絵と書が絵付けされていますが、晩年はその技法を生かした絵を多く残しています。この記事の中には、乾山とは、仁和寺の鳴滝泉谷の一角に窯を開いたとき、この窯が京の北西、すなわち乾の方向にあったところからつけられた窯の名前であったこと、また乾山の芸術家としての歩みが記載されていますが、私がもっとも興味をひかれたのは、「陶工必用」という伝書です。この伝書は、御室焼、押小路焼、乾山焼の三部からなっていて、そのなかに乾山焼の黒の絵の具の彩色方法が記述されています。下絵から上絵付けまでの様々な釉の重ね合せの方法が記されており、それは、乾山の絵画の絵付けの技法にも連なるもののようです。乾山の陶器の絵も、また絵画も大胆さと繊細さのバランス、そして明るい色彩が存在感を感じさせます。

10月


三代道入・ノンコウ展


道入は慶長四年(1599)、古田織部の全盛の自由な気風が満ちた時代に生まれました。五代宗入の書き残した「宗入文書」によれば、通称は吉兵衛で、道入というのは戒名であることが記載されています。さらに「此時宗旦の花入ニのんかうと云銘有以此吉左衛門ヲのんかうと云」とのんこうの由来が記されています。さてノンコウの作品は初代長次郎と比べると光沢が強く、ゆったりと溶けた釉薬がやわらかくたまりをつくり、ずうっと華やかです。この作品は本阿弥光悦にも影響を与えています。楽の祖である長次郎とは大きく変わって、現代によりフィットする感じですね。


北村美術館秋季展・暮秋のころ


名残のお茶事を想定した展示のため、いろいろなお取り合わせに尽くされるお心遣いがわかります。来月は改まった炉開きですが、その前の一時、残り少なくなった茶壷の古茶を、深まりゆく秋の風情を楽しみながらいただこうというのが趣旨のお茶事です。庭の手入れもさびれた風情を残し、器も不あえて改まることなく多少の不揃いは許されます。ということで、普段出番のないようなお道具でも、むさ苦しくならない程度にはつかうことができるそうです。寄付きの掛物には円山派塩川文麟の雲月図で、お月見です。主役は鉄の大振りの破れ風炉に掻き揚げ灰の趣向です。カラー頁にこの風炉が載っていますが、威風堂々といいましょうか、世間に媚びない風情がします。こんな言い方はいかないのかもしれませんが、お茶道具という枠を超えた存在感があり、印象的です。

11月


高麗の威信と李朝の思惑

高麗(1918−1392)と李朝(1392−1910)の2王朝で1000年もの朝鮮文化を作り上げてきているということを読むと、壮大な文化の厚さと、それから受けた日本文化への影響の大きさを改めて感じます。この2王朝は全く異なる文化性を持っていて、それが陶磁器を通して説明されています。
高麗は、貴族的な贅をつくした王朝で、それを代表する陶磁器は青磁象嵌です。金属の手法である象嵌を陶磁器で作りだすことはとても困難で、歩留まりも悪いにもかかわらず、あえて高麗王朝でこれを追求したのは、贅をもとめる気風はもとより、徳に11世紀後半からは平和な時代にあんり、武ではなく文化によって王朝の権威が維持される時代であったからということです。
一方李朝では複雑な政治情勢のなか、白磁を中心に華美を廃しながらも、日本礼賓用に粉青沙器(三島)を使用するなど、陶磁器を通しても、様々な世界が見えてくることが、驚きでした。


時空を超える美−清水柾博

21世紀に生きる作家達を紹介する企画ですが、今回の清水焼、清水柾博さんの作品は私にとって衝撃的でした。その水指は確かに水指ですが、それがマンションのリビングの飾り棚に置かれていたら、水指とは思われないのではないでしょうか。黒い石を鋭く四角に切り出したような、とでもいいましょうか、ここでご覧にいれられないのが残念です。この水指をガラスのテーブルに載せて、パンツルックを細身にきこなした背の高いモデルのような女性に、キリッとお点前をさせてみたい。
私は、茶の湯にも創造性が必要だと感じでいて、新しい現代の生活に合った茶の湯があるべきだと思っています。この作品を見て、作品が新しい茶の湯を創り出すということがあるのだと、感じでとても感動しました。