東洋のやきものと西洋のやきものを隔てて来た重要なポイントは、磁器である。中国、そして日本のやきものの歴史を多彩に彩ってきた磁器であるが、ヨーロッパにおいては、非常に長いこと、磁器は製造されなかった。より正確にいえば、その製造方法が知られていなかったのだ。
ヨーロッパにおいても、古代以来の作陶の歴史はあるもの、作られてきたのはあくまで素朴な陶器であった。東洋のやきものと西洋のやきものの歴史上の違いをひとことで言うならば、ヨーロッパのやきものの歴史は、17世紀まで陶器だけの歴史であったということである。これは、東洋のやきものの歴史においては、中国が非常に早い時期に磁器の焼成を始めており、広く世界に輸出まで行っていたのとは好対照であるといえよう。そこでこの章では、ヨーロッパにおいて、磁器が、いつ、どのようないきさつによって生産されるようになり、そこに東洋のやきものがどのように関わったかをごく簡単に説明しておきたいと思う。
マルコ・ポーロが中国陶磁を紹介した13世紀末頃より、ヨーロッパにおいては、中国の磁器への憧憬が高まっていた。中国磁器はヨーロッパにおいて、「人間の手によって作ることができる最高の宝石」とまで讃えられていた。しかし、目ざましいまでの人気にもかかわらず、ヨーロッパには、磁器の製造方法を知る者がいなかったのである。ヨーロッパ各国では、磁器購入のために莫大な資産を流出していた。それを防ぐ目的からも、磁器の自給生産を可能にすることが熱望され続けていたのである。
ヨーロッパでは既に、軟質の陶土に白化粧掛けし、彩絵を施すという、多彩な軟質白化粧掛色絵陶器(ファイアンス、あるいはマジョリカとして知られる)が生産されていた。また、イタリアの富豪メディチ家が、ルネッサンス期にメディチ磁器と呼ばれるやきものを生産し、当時としてはかなりの人気を博していた。しかし、磁器と呼ばれてはいたが、これは白土とガラス質による、たんなる模造磁器にすぎなかったのである。
さまざまな装飾陶器が生産され続けてはいたものの、東洋の、硬質で、薄く、軽く、色鮮やかに装飾が施された磁器に対する羨望は高まるばかりであったという。
ヨーロッパ各地において、多くの陶工や錬金術師が、磁器製造の謎を研究した。また、君主自ら磁器製造に取り組むものもあった。
日本や中国の陶磁器のコレクターであったドイツ・ザクセン公国の君主、アウグスト豪肝王もその一人であった。彼が雇った科学者と錬金術師が、ついに磁器製造法を解明したのは、1708年のある日のことであった。彼らは、磁器の生産に不可欠な成分であるカオリンを発見し、その用法を知ったのである。1710年には、マイセン王立磁器工場が設立され、国王の好むところの東洋趣味の磁器の生産が始まった。ここにおいて初めて、ヨーロッパにおける磁器の生産が始まったのである。
それ以降、磁器の製造方法は急速にヨーロッパ全土に広がっていく。磁器の製造方法が全ヨーロッパに伝播したのは、1770年頃であったといわれている。このころに成立し、今日まで運営が続けられている伝統的な窯としては、ドイツのマイセン窯、ベルリン窯、フランスのセーヴル窯などが挙げられる。
ヨーロッパ陶芸のそれまでの伝統的な絵付け様式は、おもに人物文や幾何学文が好んで使われていたが、中国・日本の陶磁器は、その伝統に大きな影響を与え、新しい装飾様式を確立させた。
中国磁器は、非常に古くからヨーロッパ各地で模倣の対象となってきた。しかし、1657年に、日本の伊万里磁器がはじめてヨーロッパに輸出されて以来、日本の磁器もまた、模倣の対象とされるようになった。特に、伊万里焼のなかでも、柿右衛門様式と呼ばれる草葉花鳥文様は、西洋陶磁器の文様構成に深く関わり、花柄文様を特色とする今日の西洋陶磁器が成立していくにあたって、甚大な影響を与えたと考えられている。
東洋のやきものは、陶器が中心であった西洋のやきものの歴史に、非常に大きな方向転換をさせたといえる。真にグローバルな市場における人気商品であった東洋のやきものを追いかけ、追いつくことによって西洋のやきものはますます発展していくことになった。
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