第90回  3月 9日

再会した運転手励まされ握手
   3月7日。NPO法人『いのちの山彦電話』から依頼された講演に向かうためタクシーに乗った。60代半ばに見えるそのタクシーの運転手さんがハンドルを握りバックミラーを見ながら、「あのう、もしかして池田裕子さんじゃないですか?」と尋ねた。「え?はい……今は、絵門ゆう子っていう名前で仕事していますが……」と答えると、「やっぱりそうですか。私、かつてNHKで仕事をしていて、あなたのこと何度もお乗せしているんですよ」。


 びっくりである。20年以上も前、『ニュースワイド』に出演の時などずいぶん送ってくれたそうだ。まだ日が昇らない夜明け前に出勤。午前6時45分の本番に備える。日本気象協会から送られてきている原稿については、それぞれの気象台に電話して確認する。積雪10センチとなっているが間違いないか。見た目ではどんな感じか。歩くと長靴が埋まってしまうのか……。実感の伝わる情報をそれぞれの気象台の担当者から得ようとする。


 どんな情報でも、確認する。出所を確かめる。それが、少なくとも不特定多数の人たちに向けて情報を公にする立場で仕事をする人間の務めだ。第三者について何かを言及する場合、それが非難中傷に当たることであれば、この吟味確認は、特殊な仕事をしていなくても私たちの生活の中で必須事項。井戸端会議にだって「ね、それそのまま信じていいの?」「それはいったい誰が言ったこと?」くらいの会話はあるだろう。


 ここ数週間、日々ニュースとして伝えられた民主党の永田寿康議員の一件。これが政治ニュースになっていること自体が茶番。運転手さんとの再会に新人アナウンサー時代を思い出しながら、そんなことに思いをめぐらせた。


 「あの頃とちっとも変わっていませんね」という運転手さんの一言に気をよくし、「そう言われるとうれしいけど、私、大病しちゃって。こんな風に動いていること自体があり得ない、普通なら病院のベッドで寝たきりになっているでしょっていうくらいデータ的には危ないんです。肝臓が腫(は)れて苦しくって、今まではどこにでも電車と歩きで移動していたのがかなわなくなって……」「でも、普通の日常にしがみついて、たとえ昨日までは寝込んでいてもこうやって今日は仕事をするために出かけてくるという日を作っておけば、ある時、そっちの自分に完全に戻れる日が来るはずって、意地でもがんばっちゃってるんです」と私が言うと、「そうしていた方がいいですよ。病院に入ってしまえば病人という方向に向かってしまうからね。ひょいと良くなる時が、きっと来ますよ」と運転手さん。別れ際に握手を交わすと、かつて車に乗せてもらった記憶がかすかに戻ってきた。


 3月6日、歌舞伎の市川団十郎さんが、急性前骨髄球性白血病から回復して舞台に復帰されることが報じられた時、「ある日、『あ、ぬけた』って思ったんです。その後の検査でがんは陰性になっていたんです」という団十郎さんの言葉が鮮明に響き、私は「やっぱり!」と思った。


 そういうことってきっとある。だから信じていれば、私のこの妖怪のようになってしまった肝臓にも何が起こるかわからない。生命の神秘とはそういうもの。


 うれしくなって夫にその話をしたら、「俺(おれ)、毎朝、鏡見ながら『あ、ぬけた』ってよく思うよ」と、自分の頭のてっぺんを指さした。


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