| 第72回 9月22日 |
「期限」考えず闘い生き続ける
| 吹く風に秋の香り。『ゆっくり日記』が始まった頃、「毎週1回、現在進行形で書くなら、いよいよ具合が悪くなった時は口頭で誰かに書いてもらって、幸せに天に向かう自分を元アナウンサーとして実況中継しよう」などと、とんでもない考えを頭によぎらせた私だが、あれからそろそろ2年。今、普通にパソコンに向かう元気な自分を、「これって不思議なことなのかなあ」と、ふとながめる。 最近、医療関係者から講演に呼ばれることが多い。講演後の食事の席など気のおけない場で、私はよく「今の私の元気な状況を先生はどう思われます?」と質問してみる。 するとたいてい、「あり得ない」「奇跡だ」というような答えが返ってくる。一度あれほど深刻な症状になったがん患者が、その後3年以上もこうして元気でいるということは、抗がん剤のタキソールが効いていたとはいえ、かなり稀まれなこと。私は今も、相当危ない橋を渡っているようなのだ。 来年の2月に私を朗読とトークのイベントに呼んでくれている主催者が、周りの数人の医師に、「絵門さん、きっと穴を開けるから依頼をキャンセルした方がいいですよ」と言われたという。医療的見解によると、私は今から半年後、この世にいないらしい。 その言葉を敢然とはねつけたと言う主催者に、私は「じゃあその日、『幽霊でなくてゆう子です!』って言いながら舞台に上がりますね」と言って笑ったわけだが、かなり恐ろしいところで生きているらしい自分を、改めて認識させられた次第である。 先週のこのコラムの隣に子犬の写真が載っていた。動物愛護センターで番号札をつけられ、新しい飼い主が現れるか殺処分されるかの狭間はざまに立ち、静かに一点をみつめている。多くの人が涙しただろうその姿に、私は目をこすりながら、「どうにかしてあげられないの!」と心の中で何度も叫び声をあげていた。 こういう施設に入った後、新しい飼い主に引き取られる幸運をつかむ犬はごく少数。子犬が、生きられる可能性の光が微かすかになっているのを小さな体全身で感じていることを、写真は痛いほど伝えていた。もし野生に生きる犬なら、たとえ猛獣に襲われても全速力で走り、最大限、己の裁量で生きるための闘いをするだろうに、それをすることさえ許されないという、いたたまれない運命を、静かで無垢むくな表情が語っていた。 9月12日、テレビ東京の『月曜エンタぁテイメント』に出演。みのもんたさんの「いつまで自分が生きられるということを考えますか?」との質問に、「生きる期限なんて考えない。考えてはいけないと思う。私が生きることは仲間も生きること。だから私はがんで死にたくない。全身転移、再発転移の患者が希望をつなげるよう、分野の違う方たちが意見を交換しあう患者本位の統合医療が進んでほしい」と話した。 天に向かった仲間を思い出し不覚にも涙。明るく通せなかったことが悔やまれたが、私は死ぬことより、長く生きられる健康な体に戻れないと烙印らくいんを押された状態で続く時間の方が恐ろしい。生き物らしく、生きぬける可能性に向かって生きる。そういう闘いをしたい。それは、がんが究極の症状にまでなれば必ず死ぬという固定観念を外すことから始まるのではないだろうか。 |