| 第67回 8月 4日 |
言葉は微妙 立場で違う感じ方 ![]()
| 7月29日、「絵門さん、生きてますかあ?」という件名のメールが届いた。1カ月以上このコラムが休みとなり、その間「がんと一緒にゆっくりと」の続編執筆に追われた私はホームページの更新もしていなかった。だからとは思ったが、一瞬むっとした。 抗がん剤(タキソール)の週に1回の点滴を2年半続けてきたが、先月いよいよ耐性ができて効かなくなったということがわかった。私の全身に転移した乳がんはタキソールによって抑えられていたのだが、2000だったマーカーが100を切ってから徐々に上がり出した。つまり、タキソールにも負けずに生き残ったがん細胞がまた増幅して、いよいよそれでは御しきれなくなったということ。次の作戦が必要だというシビアな分岐点に立たされていた。 長期休みに入る前、「新しい命のロープ探しをいたしましょう!」と元気よくつづった私だが、この1カ月、本の執筆に頭をかきむしり、治療の方針に心を乱し、暑さにあえぎ、厳しい日々を過ごしていた。それだけに、この件名はこたえた。開いてみると「長いこと休んでいるけど元気ですか?」の書き出しで、患者は情報を求めているので載せてほしい、という内容。「同じ病気の仲間からだ」と思った途端、むっとした気持ちはなくなっていた。 言葉は「使う単語」「言い回し」の問題だけではないと思う。その人がどういう気持ちでそれを言ったかによっては、「こんなことを言われた」と傷つき怒る必要はないということも多い。しかし、病気を抱えれば心は傷つきやすくなっていて、同じ言葉でも、患者は良い方に受け取れない場合が多くなる。だから、少なくともこういう言葉だけはやめてほしいと思うものを私は取り上げては訴えてきた。言葉は、使う人の立場によっても微妙である。 「生きてますかあ?」のメールも健康な人からとわかれば、怒ってすぐさま削除しただろう。「がんになってもいいこともいっぱいあるわよ」という言葉も、患者同士なら励まし合い。健康な人からだと「分かったようなこと言わないで!」となる。つまり、患者同士という同じ経験、あの恐怖、あの卑屈感を味わった仲間という大前提がお互いを踏み込みやすくさせる。 ところが、これも病気の程度によって微妙で、転移している患者が、早期発見早期治療ができた患者の「私もがんよ」という言葉に「ああ仲間か」と心を許した次の瞬間、「小さいうちに見つけてもらって助かったわ」という言葉を聞き、傷つくということもある。患者会などでも、最も神経を使う点ではないかと思う。 「がんになった人の気持ちなんて、どうせ本当にはわかってもらえないわよ!」と、たまに私がぶつける捨てセリフには「うん、分からないよ」と普通に答える夫。「治療、どうしたらいいと思う?」に対しては「ゆう子がしたいようにするのがいい。何をしても大丈夫だよ」。治療法に答えが出ていない病気を抱えた家族に対して、これに勝る答えはないなとつくづく思う。と、そんな話をしたら、夫は「それは、ゆう子のような性格の場合だけどね」と言った。なるほど。 人間は、言葉を操るようになったがために、かえって判断を誤ることも多くなったはず。分岐点に立つ私にも、自分の体の無言の声を聴くべく、尋ねず、しゃべらず、声なき声を聴く姿勢が大切。コラムも再開。当面おしゃべりを慎み書くことに元気に専念します! |