第31回 8月12日

集団でとらえるデータに疑問

  「がんと一緒にゆっくりと」の出版後、初めて講演に呼んでくれたのが広島県大竹市で、去年の9月のことだった。コーディネーターの直子さんは私と同世代。講演の合間に訪ねた原爆資料館で話してくれた直子さんの叔母様の話は、私の心に深く残っている。

  直子さんのお母さんの妹、美枝子さんは広島市内の女学校生。昭和20(1945)年当時、女学校は授業が行われず労働奉仕の場となっていたが、正義感の強い美枝子さんは、夏休みも毎日、大竹市から登校し続けた。

  「学校を休む友達が多いけど私はお国のために頑張るね」と、夕涼みの時両親に話した。そのあくる日が8月6日だった。食料調達が難しい市内在住の同級生に分ける野菜を背負い、お気に入りの水筒を肩にかけて元気に出かけたという。

  ピカッと異様な光につぶされていった広島市。その様子は山口県との境に位置する大竹市からもよく見えたという。その日から美枝子さんの父、母、兄が広島市に通い、捜し続けたが美枝子さんはみつからなかった。

  7日目、途方に暮れたお母さんがへたりこんだところが瓦の山。無意識に置いた手が何かに触れた。掘りおこすと、「向田美枝子」という名前がはっきり記された水筒だった。セルロイド製、赤い水玉模様の水筒は、焼けも変形もせず、美枝子さんがその日飲むはずだった水を残したままお母さんの胸に抱かれた。

  「そこは、女学校からは遠い、なんの脈絡もない場所だったのに、不思議よねえ」と直子さん。水筒は今、直子さんの祖父母(美枝子さんの両親)のお墓に美枝子さんの遺骨代わりに納められているという。

  「○万人の死は、戦争終結のためだった」という論理がある。だが、「その後の平和を享受する○人のために、○人の犠牲は仕方ない」などという理屈はあってはならないと思う。

  人をマス(集団)でとらえるデータにはいつも疑問を感じる。がんになってからよく出くわす、「5年生存率○パーセント」「延命率をあげた」という表現。それを聞くたびに、「私は人間。マウスじゃない!」と叫びたくなる。個性ある患者一人ひとりの軌跡を大切にする視線が、足りない気がする。

  たとえば、医師が見放した後、長い年月、元気でいる患者の話はかなりあるが、その要因の研究はあまり聞いたことがない。そうした事例の追究から得られるものが、大がかりな治験のデータより意味を持つ場合もあるかもしれないのに、と思う。

  笑顔で登校した美枝子さん。焼け野原を捜し回ったお父さんとお兄さん。水筒を抱いて言葉もなく震え涙したであろうお母さん。そういう事実の積み重ねこそが戦争の真実の姿を伝える。

  今年の8月6日。戦後59年が過ぎ、戦争を知らない2人の広島の小学生が式典で切々と平和を訴えた様子に心を打たれた。一方で、その後の小泉総理の事務的なコメントには違和感と憤りを覚えた。

  広島からの中継を見たあと、私は、この日92歳になった祖母(ふぅちゃん)に電話をした。私が「お誕生日おめでとう」と言うと、いつものように「ああ、原爆の日だものねえ」という声が返ってきた。昭和19年までのように、この日が「ふぅちゃんの誕生日」というだけだったらよかったのにと、私は毎年この日がくるたびに思うのだ。


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