| 第20回 4月 8日 |
病院の機械・検査 ほどほどに ![]()
| 4月2日、妹とめいと3人で前々から楽しみにしていたミュージカルの観劇。地下鉄の改札でパスネットと間違えてイオカードを入れてしまい「パタン!」と太ももを機械でさえぎられた。 「ドキン」とした。おっちょこちょいの私はこういうことがしょっちゅう。その都度「ドキン」とする。そして、六本木ヒルズの自動回転扉の事故のことを思った。あまりにも痛ましい。 かつて駅員さんのリズミカルなはさみさばきにみとれ、あいさつを交わしながら通った改札口。それがあっという間にすべて無機質なものに変わってしまった。 人がしていた仕事が次々機械にとって代わり、今やトイレまでお尻が離れると自動的に水が流れる。こんなことでは若いうちからボケが始まってしまうと嫌になる。リストラ、合理化。「人が機械を使って人の仕事を減らし、結局人の首を絞めてきたように思う」と書けば、短絡的だとしかられるかもしれないが、私は機械を好きになれない。 がんになると、たいていはCTやMRIの検査を定期的に受けるようになる。しかし、私は退院後2年間、骨折した首の骨の周り以外の画像を撮っていない。主治医からも勧められない。CTは、入院中に撮って「肝臓に5カ所、肺も水が抜けた後はがんがあるはず。骨は手足を除いて全部。全身どこにがんがあってもおかしくない」と説明された。以来、撮影していない。 検査について私は「その検査の結果によって打つ手(治療の方法)を変える可能性がある時以外は受けない」と考える。検査に使う時間と費用。良くない結果が出て落ち込んだ後、自分の気持ちを持ち直させる労力。そして、嫌いな機械に「ドキン」としながら身をさらすストレス。それらを私は無駄だと考えるから。検査で収益を上げようとする病院でない限り、患者が検査の必要があるか尋ねる姿勢は尊重されるはず。 ノンフィクション作家の柳原和子さんが、再発転移後、自分の画像を見ることを拒否したとテレビ番組で語っていた。がんをしっかりみつめ執筆活動をしてきたほどの人なのになぜという声もあるようだが、私は「逃げる」ためでなく「がんと共に生き抜く」ために画像を見ない選択があっていいと思う。 昨秋、以前主治医がさらっと見せてくれた骨転移の画像を、私自身を取材したテレビ番組で再び見るという機会があった。「黒いところがすべてがん」というコメントとともに改めてアップで見た後、すぐにでも骨がバラバラ崩れていくという恐怖のイメージがわき上がり、打ち消すのに非常に苦労した。 死ぬまで「病人」でなく人として生きたはずの原始人のようでありたいと思うことがある。検査データはあくまで手段であって目的ではない。がんの大きさや数ばかりを気にする「病気のおっかけ」になるのでなく、私はイキイキ生きることへのおっかけでありたい。検査用機械とのお付き合いは必要最低限でいい。 命のつながりをテーマにした劇団四季の「ライオンキング」。エネルギーあふれる舞台から力をもらい、翌3日は、再発転移した乳がん患者の集い「なのはなサロン」に元気に出席、しゃべって聴いて笑い合った。再発転移後も治癒を信じて前向きにすてきに生きている仲間はたくさんいる。柳原さんが「再発転移しても大丈夫!」と伝えるメッセンジャーになってくれるとうれしいなって思っています。 |