第17回 3月18日

突然の痛みに動転、でも実は

  夜、右胸のしこりに痛みを感じて何度か目を覚ました。朝、起きてみると右後頭部が重く、なんだか息苦しい。朗読コンサートの疲れは、しばらくおとなしくしていたおかげで回復したと思っていたのに。嫌な予感……。

  3月8日のこと。銀座で友人たちとの約束があり、しゃべっているうちは忘れていたが、夕方家に戻り背中に意識を向けると、やはり変だ。

  2年前の記憶がよみがえった。胸水がたまって入院した時、あばら骨の周りの激痛で、触ることも横たわることもできなかった。日々、呼吸ができなくなっていき、枕を抱えて「痛いよう」と泣きながら体を丸めていた。あの頃の症状になっていく予感……。

  「でもまさかこんな急に。前日までなんともなかったのに」。休眠していた不安がいきなり目覚めた。指は聖路加国際病院の電話番号を押していた。「また胸に穴を開けて水を抜くあのつらい治療が始まるのか」。私の頭の中ではすっかり、「背中の痛み=胸水」になっていた。

  電話は看護師さんから中村清吾先生に。「がん細胞が一気に増殖して水がたまること、ありますか?」と言いながら私は体調の急変をまくしたて、翌日の診察をお願いし、「何も変わったことはしてないんですが」という言葉を連発して電話を切ったと思う。

  2年前には奇跡的に回復したが、今度は厳しいかもしれない。振り出しからまた治療を受ければいいという思いと、遠のいていた死の影とが交錯する。迷惑かける仕事先、片づけができていない納戸のことなどがとりとめもなく頭を駆け巡り、「あーあ、フルート。買ったばかりなのに棺ひつぎに入れるなんてもったいない。譲る相手を探さなくては」と考えて、気がついた。

  「昨日、フルート、吹き続けた!」。私は間違いなく「変わったこと」をしていたのだ。

  この1年、加古ふみこさんのオーボエと石橋美奈子さんのユーフォニアムの演奏とともに朗読コンサートをしてきたが、私はいつも2人の音楽に感動し癒やされてきた。私自身はこれまで、息を吹き込む楽器とは縁がなかった。肺のためにも朗読の技術向上のためにも、きっといいはず。やってみたい気持ちがつのっていた。

  7日の日曜日。楽器店から出てきた私はランドセルを買ってもらった小学生のような気分だった。マイフルート。しかし簡単には音は出ない。首にプロテクターをしたまま姿勢をただし、腕を横に上げ、かなり無理な姿勢で「フーフー」と息を吹き込む。振り返れば3時間、夢中だった。

  10日。一晩寝て痛みはなくなっていた。やはり筋肉痛だったに違いない。診察室に入った私は心配そうな表情の先生に思い切って言った。

  「夫が『先生怒っちゃうよ』って言うんですが、原因が……」

  「フルート」と聞いた先生の肩がスコンと落ちた。

  「僕は怒らないけれど、体が怒っているよ」と一言。

  体調の急変の原因を、帯状疱疹ほうしんに始まり何通りも予想し、検査の準備をしてくれていた先生。ごめんなさい! 本当に悪くなった時診てもらえなくなったらどうしよう。「オオカミ少年にはなりたくない」と思いながら診察室を後にした。

  腰痛、頭痛、筋肉痛。何もかもがんと結びつけてしまう『がん患者の呪縛』。高じると自分も参るし周りも迷惑。体を怒らせないようにフルートの練習は1日30分以内に。でもやっと、「ポォ〜」と音が出るようになってきた。また夢中になりそう!


インデックスへ

絵門トップへ