第四回 11月 27日

気持ち重くする「怖い」言葉

 ちょっと前、7月の話になる。静岡県立こども病院で朗読をした。主に白血病で入院している子どもたちが、底抜けに明るい笑顔で物語に耳を傾けてくれた。

 「人生についてあまり経験をしていないから、先のことを考えるということがないんですね。子どもには今しかないからこんなに前向きなんです」と看護師長さん。

 小さな鼻の穴に酸素の管を入れている子、頭にバンダナ、口にマスクをしている子……。幼児や小学生がほとんどで、それぞれの治療の最中なのだが、みな目が輝き、エネルギーに満ちていた。

 ある程度の年齢になった子には全員、病気を知らせるという。両親が拒んでも他の子どもたちがみんな病気を知って入院している中、ごまかしながらの治療はあり得ない。

 「私が本人に紙芝居などを使って話をし、治療のリスクも伝え、治療法も自分で選んでもらいます」と、医師の堀越泰雄先生。大の大人に告知するのしないのと言っているのと、なんという違いか。

 私は、「告知」をしないこと、「余命」を言うこと、どちらもナンセンスだと本に書いた。本人の体の中で起きていることは知らせるべきだが、命のリミットの予測は無意味。患者が望むならこれまでのケースから確率的な話をする方法もあるかもしれないが、「あなた自身がどうなるか、私には分からない」と堂々と言える医師こそ信頼できると思う。

 それにしても、「余命」「告知」「宣告」など、どうしてがんの場合はこういう恐ろしい感じの言葉が目立つのだろう。そういう怖い言葉の後に「闘う」だの「壮絶」だの言われるからがん患者は悲劇の主人公になっていく。

 「がんを告知された」と、「がんがあると言われた」とは微妙に違う。

 私は今まで幾度となく、「告知された時どうでしたか?」という質問を受けてきたが、そのたびに「告知」という言葉の重さに見合うショックや絶望を表現できないことに戸惑いを感じてきた。その瞬間にどん底に落ちるのではなく、考えているうちに大波小波のように押し寄せてきたつらさをどう伝えたらいいのか悩むのだ。

 「がんと言われたとき、どんな感じでしたか?」と尋ねてもらえば、もっと普通に話ができるのにと思う。

 うれしいことは大げさがいい。つらいことは気楽に、でもしっかりと受けとめ、対策を練る。それが人を前向きに力強くさせるもの。がんであることだけでも大変なのに、さらに気持ちを重くさせる言葉で演出する必要はない。

 ことの葉とよく言うが、葉っぱのかもし出す雰囲気が涼やかか、おどろおどろしいかの違いは大きい。一度脳にインプットされた言の葉のイメージはそれからずっとその人を支配する。だから、良い響きを残すことが大切。

 子どもたちの頭には、告知や宣告、余命といった重いイメージはない。「病気があるから、やれることをやって治していこうね」ということしかない。大人のがん患者やその周りの家族、友人も、今だけをみつめるように努めれば、子どもたちのたくましさに近づけるのではないか、と私は思う。(エッセイスト)


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