特集「絵門さんの闘い」 朝日新聞社発行「一冊の本」6月号より

 (朝日新聞社のご了解を得て、下記に転載させていただきます。)


絵門さんの「輝き」と「闘い」  朝日新聞社会部 上野 創
ゆう子、ありがとう  三門健一郎
妥協をしない人  新潮社出版企画部 笠井麻衣
ゆう子さんへ  坂本歩


絵門さんの「輝き」と「闘い」 朝日新聞社会部 上野 創


「第一印象は『わがままな人』。その次は『人騒がせな人』でした」。
 2006年4月。乳がんで亡くなった絵門ゆう子さん(49)のお別れの場で、聖路加国際病院のチャプレン(病院の牧師)は開口一番、そう話した。やや重かった礼拝堂の空気が、ふっとゆるんだ。
 3年前、03年の年の瀬、病院に隣接するこの礼拝堂で絵門さんは朗読コンサートを開いた。管楽器の音色と自分の朗読で、入院患者さんを励ましたい。大事なのは日程で、限りなく年末に近くなければならないという。
 礼拝堂のスタッフの都合を考えれば、早い時期が良いのは分かる。でも、大晦日も正月も、自宅へ帰れない患者さんたちのためには、できるだけ年末近くにしたい。自身も前年、がんの転移による首の骨折と呼吸困難で運ばれ、この病院で年を越した。正月を病院で過ごす寂しさを少しでも和らげたいからと、チャプレンに対して言ったという。
「ほかの患者さんのことを思うと、ここで私はわがままにならなければならないんです、とのことでした。悪い意味で使う言葉ですが、私の中で、『わがまま』のイメージが少し変わりました」とチャプレンは語った。
 そう。絵門さんはそういうまっすぐな人だった。自らががん患者だからこそ、ほかの患者の心に寄り添おうとする。そして正しいと思ったら一直線。目標を定めて突進する。「人騒がせ」でチャーミングな人だったなあ、と列席していた私は思い出していた。
 NHKのアナウンサー(当時は「池田裕子」)からフリーになって活躍していた絵門さんが乳がんと診断されたのは、2000年10月。手術と抗がん剤の治療を示されたが、「考える時間がほしい」と言ったまま、2度とその病院には行かなかった。同じ乳がんをわずらった最愛のお母さんが、治療が進むとともに衰弱して亡くなったのを見て、西洋医療への激しい不信を抱いたからだ。
 病院から離れた彼女は、いわゆる民間療法を転々とさまよった。中には、草の粉をといて患部に貼る治療法、宇宙力エネルギーで治癒に導く布団、ピラミッドパワーの温灸器といった不思議なものもあった。憑かれたように渡り歩いた1年余りの間にがんはあちこちに転移、骨折と呼吸困難で聖路加に駆け込んだという経緯だった。
 そこで出会った中村清吾医師は、絵門さんの西洋医療不信をいっぺんに氷解させた。患者の言葉にじっくりと耳を傾け、治療を押しつけない姿勢、「がまんしちゃったんだね」「ダメなんてことないよ」という共感に満ちた言葉。そして、あれほどいやがっていた病院での治療を受ける気持ちになり、抗がん剤も受け入れるようになっていった。
 みるみる快復していった絵門さんは、03年5月、体験を最初の著書『がんと一緒にゆっくりと』(新潮社)にまとめ、世の中への発信を開始した。重い体験なのに、ユーモアがあちこちにちりばめられていて読みやすい。がん患者を取り巻く医療や社会の環境を変えたいという思いもあふれていた。
 実は、私もがん経験者だ。
 手術、抗がん剤治療から転移、再発、鬱まで、一通り体験している。だから彼女の書いていることに、いちいち共感を覚えた。そして、がんを抱えて生きるこのチャーミングな女性の日々の体験と喜怒哀楽を新聞の読者に届けたいと思った。こうして始まったのが朝日新聞東京版、毎週木曜日のコラム「がんとゆっくり日記」だった。
 あちこちにがんの転移があり、リアルタイムで抗がん剤で治療を受けている患者自身の新聞コラムは、異例中の異例だった。「朝刊開いてがんの話で大丈夫か」という声もあったが、私は必ず読まれると信じていた。予想通り亡くなるまでの2年半、読者の熱い反応に支えられ、90回以上にわたって掲載が続いた。
 転移が進んだがん患者には、死のイメージがつきまとう。でも彼女は、常に生きようとしている姿勢をコラムで表現していた。患者やその家族に対しては「今、生きていることを見つめましょうよ」、健康な世の人々には「死にゆく人として見るのはやめてね」というメッセージをはっきりと伝えた。
 コラムが始まったあと、彼女の活動の幅はぐんぐん広がっていった。祖母をモデルに童話を書き、白血病の少女と一緒にストーリーを練って絵本を作り、朗読コンサートをあちこちで開催。幾多の講演、テレビや雑誌の取材をこなし、小学校や病院、医療者の卵の前でも朗読や話をした。がん患者向けのカウンセリングを始め、患者同志のふれあいの場を設け、フルートを習ったり、詞を書いて歌をつけてもらい、CDを出したり。
 私を含め、がんになってもこんなに色んなことができるのか、と驚いた読者も多かったし、「自分もがんばろう」と勇気をもらった患者や家族はもっといただろう。
 同時に、悟りを開いた「優等生」ではなく、不安や怒りを家族にぶつけてしまったり、かなたに見え隠れする死におびえて心が激しく揺れたりする自分がいることも、正直に書いた。
 そして患者同士のふれあいがどれだけ励ましになるか、医療者の言葉が良くも悪くもどれほど患者にとって大きな力を持つか、闘病するうえで「希望」がいかに大切か、といったことも伝えた。
 コラムには、夫の三門健一郎さんがちょくちょく登場した。
 随所に「わがまま」を発揮し、正義感のかたまりで泣き虫、しゃべり出すと止まらない絵門さんを、ドンッと受け止めた三門さんの様子がコラムから伝わってきた。三門さん本人は「そんなたいそうな者じゃありません」と言うが、彼女がいかに支えられているかがよく分かった。
 それは、大切な人が病気になってしまった読者を大いに励ましたことだろう。腫れ物に触るように扱う必要はない。不確定な未来におびえることなく、治ることを信じてそばにいてあげるだけでいい、という絵門さんのメッセージがそこにはあった。
 週1回のコラムを2年半も書き続けるのは、きわめて大変なことだ。何度か「次回は少し休みますか」と持ちかけたことがあったが、いつも「大丈夫です」「休まなくていいです」という返事だった。コラムが1年続いたとき、「隔週にすることもできますよ」と伝えたが、「ぜひこのままやらせてください」とのことだった。
 彼女は他人から期待されることでエネルギーを倍増させる人だったと私は思う。コラムや朗読、講演、取材依頼は、絵門さんにとってある程度の負担と、それを上回る生きるうえでの柱になっていたのは間違いない。
 かつて、「急に具合が悪くなってドタキャンしたらどうしよう。今は元気でも、数カ月や半年先の当日になったら行けない状態なんてことになったら」と不安を抱いたときもあったそうだ。でも、「先のことは誰も分からない」と開き直った後には、依頼をどんどん引き受けるようになった。
 そして、「がん患者だからって、何も出来ない人間ではない。むしろこちらが出来ることについては、大いに期待してほしい」と発言するまでになった。

 ただ、まぶしいほど輝いていた日々はまた、「闘い」の時間でもあったと思う。
 がん患者への社会の偏見、頑健な人優先のような世の中の生活環境、一部に残っている心ない医療者のふるまい、患者を食い物にする民間療法の悪徳業者など、闘う相手はさまざまだったが、その最たるものは、亡くなる約半年前に、「抗がん剤の投与をしばらくストップし、自分なりの方法で完治を目指す」と決断したあとの葛藤だと思う。
 絵門さんには、抗がん剤が劇的に効いた。が、ある時期から効きづらくなっていった。
 がんを抗がん剤や放射線で治せる時代になってきたが、あちこちに散らばったがんの場合、ある程度まで効果のあった薬が途中で効かなくなる場合がある。その薬が効きにくいがん細胞が残り、勢いを増していってしまうのだ。
 そうなったら別の抗がん剤を使う。それも効かなくなったら、さらにほかの薬。さらに……、という具合だ。
 絵門さんはこれを「エンドレス」と表現した。根治できないとしても生活の質を保ちながら病気と共生して生きるのが、がん治療の一つの現実だが、いつまでも薬から解放されないで生きる道に彼女は強い疑問を抱いていた。多くの「戦友」を見送ってきた経験も影響した。
 絵門さんは西洋医療から逃げて病気が進行し、西洋医療に命を救われて活躍することができた。でも、その医療の限界も見えてきたとき、まだ使える抗がん剤がある段階で投与をやめるという決断をした。2冊目の著書『がんでも私は不思議に元気』(新潮社)にも、コラムの中でも、熟慮の末に自ら選んだことだと書いている。
 どんな薬にも作用と副作用があるが、抗がん剤は特に体に対する毒性が強い。こうした毒物をずっと摂取し続けることに抵抗を感じていたという。完治を目指すならいいが、「共生」のために薬漬けになるのなら、自分の信念とは合わない。いつかは薬をやめ、自分の治癒力を高めることで治す方にシフトしたい。それが熟慮の中身だった。
 もちろん「死を受容した」わけではない。むしろ、常々コラムや著書で書いていたような「生への執着」の表れだった。
 自らに備わっている治癒力に賭けた後、薬の副作用や「信念とのギャップ」からは解放された。同時に、がんが広がってしまうのではないか、決断は間違っていたのではないかという不安も引き受けることになった。この不安感との闘いを想像すると、胸が苦しくなる。さらに発信を続けてきた以上、自分の決断が多くの患者に影響を与えることも分かっていて、どのように受け止められるのか心配だったと想像する。
 大変な決断だった。その半年後、結果として彼女は逝った。ただ、正しかったのか、間違っていたのか、という議論にはまったく意味がないと私は思う。
 絵門ゆう子さんは最期まで、自分らしく生きようとした。「わがまま」で「人騒がせ」というチャーミングな一面を発揮したとも言える。なるほど、彼女らしいじゃないか。
 聖路加の礼拝堂でチャプレンの話を聞きながら、私はそういうことを思っていた。
「生きる」というのは、選ぶこと、決断することだ。絵門さんはそれまで生きてきたように、自分の責任において、信念に基づいて選んだ。私は彼女と別れた寂しさ、悔しさを抱きつつ、その選択と決断の大きさをかみしめている。
(一冊の本 2006年6月号 特集・絵門さんの「闘い」より)


ゆう子、ありがとう 三門健一郎



 3月19日、日曜日。「健ちゃん、コロッケが食べたい。作り方を教えるから、ジャガイモ茹でて」と妻からの指令。そんな面倒なこと、と思いつつもキッチンに向かった。そのころの妻は、仕事の日以外は寝ていることが多くなっていたため、揚げ物が食べたくなるほど食欲が出てきたことは回復への良い兆しかな、とちょっとホッとしていた。そして「夫の手作りコロッケ」も、ゆっくり日記のネタにするつもりだろうな、とのんきに考えていたのだ。
 毎週コラムを書くということは、当たり前のことだが毎週締め切りがあるということだ。このため我が家の生活のリズムも一週間単位になり、締め切りが迫ってくると、二人ともなんとなく落ち着かなくなるのが日常化していた。
 妻の原稿の書き方は、頭の中に書こうと思っていることを組み立て、それがほとんど出来上がってからパソコンに向かい、一気に仕上げる、というスタイルだった。書き始めたら早いのだが、いつも締め切りギリギリまでねばる。早く書き上げてくれれば、こちらもゆっくりした気分になれるので、自ずと協力的にネタを提供するようになった。コラムの中に何度か僕が登場しているのは、すべてではないが、こんな事情もあったのだ。
 原稿ができてからの第一声は「読んで」ではなく「健ちゃん、聞いて」である。その声とともに、すぐさま朗読が始まる。大抵は僕が風呂に入っているとき、風呂場の入り口に腰掛けて、書き上げたばかりの原稿を嬉々として読み上げるのだ。その勢いで叔母や妹に電話し、そこでまたひとしきり朗読が繰り返されることになる。よく飽きないものだと思うのだが、みんなの反応を確かめて、はじめて「できた!」と思えたのだろう。毎週ゆっくり日記を書くことは、妻にとって「命をつなぐロープ」だった。そのロープの感触を確かめて妻が笑顔になったとき、我が家の一週間がようやく終わるのである。
 92回目の最後の回となってしまった原稿ができたときは、このパターンが崩れた。書き上げたのは、おそらく掲載日の前日。「読んで」とも「聞いて」とも言われなかった。「次回も続きます」で終わってしまったゆっくり日記だが、あと2回分の原稿の構想はできていたようだ。3月30日木曜日の朝、出勤の支度をしていた僕に「早く続きを書いてしまいたいから、パソコンを持ってきて」と妻が言ったとき、意外な感じがした。いつもなら、早くても日曜日になるまで、原稿を書き始めることはなかったのだ。いま振り返ってみると、自分の中の変化を感じて、焦っていたのかもしれない。結局、「続き」はどこにも残されていなかった。
 何を書こうとしていたのか。もう想像するしかないのだが、ひとつだけ言えることがある。妻が見つめていたのは、がんから解放されて健康な日々を送っている自分の姿だった。そのために、がんを完全に治す、完治の可能性に賭けられる道を選んだのだと思う。夫として、妻のその強い思いに、もっと寄り添うことができたのではないか。いまとなっては、それが悔やまれてならない。
 さて、締めくくり。妻ならゆっくり日記の最終回を、こんな風に書いただろうか。
「ゆっくり日記は、きょうでひとまず終わりです。毎週ご愛読いただき、ありがとうございました。このコラムを読んで、希望や勇気を感じてくださった方々には申し訳ないのですが、私はひとまず先に旅立ちました。だからといって、皆様の前から光が消えたわけではありません。がんは百人百様だし、人の生き方だって百人百様なのだから。そうそう、私がいなくなったらきっとダメになると思っていた夫も、少しはしっかりしてきたみたいです。
 5月3日、私の旅立ちからちょうど一か月。夫が私から教わったコロッケを作ってくれました。手際が悪くて2時間もかかったのはいただけないけれど、味は私が伝授しただけになかなかのもの。なぜだかちょっぴり塩味がきいていたけど、この世で最高の味だったよ! 健ちゃん、ありがとう」。
 こちらこそ、いつまでも心に残る最高の笑顔を、ゆう子、ありがとう!
(一冊の本 2006年6月号 特集・絵門さんの「闘い」より)


妥協をしない人 新潮社出版企画部 笠井麻衣


 私のメールサーバーの受信トレイには「がん」というフォルダがあり、絵門さんからのメールが二百通以上保存されている。がんと診断されたが通常の西洋医学を拒否し、さまざまな民間療法を試した。しかし、がんは全身に転移し聖路加病院に駆け込むことになった――自身の経験を本にまとめるべく書き始めてから亡くなる一週間前まで、約四年の間に受け取ったものだ。
 絵門さんとは電話で連絡を取り合うことが多く、したがってメールを読み返すこともなかったのだが、ここに思い出話を書かせていただくにあたり、久しぶりにフォルダを開いてみた。お喋りをしているかのような活き活きとした文章が、パソコンの画面に蘇ってくる。
 メールを読み直し改めて驚いたのは、何と言っても個々のメールの長さだ。たとえば『タイトルのことですが……』という件名のメールは、プリントアウトをすると三枚にもなる。一冊目のタイトルをつけようという時にいただいた一通である。
「(タイトルは)著者の思う通りにならない分野だということもよくわかっているので、〈逆に著者の思うとおりにして良い結果にはならないとも思うので〉どうのこうの言うつもりはありません」と始まっている。しかし、それならば長くなることもない。徐々に本音が出てくる。「伝えてなかったと後悔するのは嫌なので、長いメール、辛抱してくださいね!」と途中で断りが入り、その日電話で合意したはずのタイトルを受け入れられないこと、その理由、代わりにこんな言葉を入れられないか、といった内容が延々と綴られている。
 タイトルは、本作りの中でも重要な要素だ。特に闘病記は類似本も多いため、少しでも読者の「気」をひこうと、私たちは非常に頭を悩ます。もちろん著者の意向も反映させるが、営業や宣伝のことも考慮した版元の意見が通ることが多い。
 ところが、絵門さんの場合は違った。前述同様の長いメールが、数日間のうちに何通も届いた。この件については、電話でも何回も話した記憶がある。
 当時、絵門さんの強いこだわりには驚かされたが、頻繁にやり取りをしたことで、彼女がどんな気持ちで執筆してきたのか、どのような本にしたいのか、原稿からは感じられなかったことまで分かるようになった。『がんと一緒にゆっくりと』というタイトルがふと頭に浮かんだのは、こうしたやり取りを重ねたあとのことだ。絵門さんに打診すると、すぐに了承してくれ、その晩、こんなメールをくれた。
「無理がなく自然に言える言葉で、がんの人が本を胸に抱いてくれた時、とても優しく穏やかな気持ちになれる……そういう最高のタイトルだと思います。嬉しくてたまりません」
 タイトルだけではなかった。原稿、装丁、宣伝活動など全てのことにおいて、絵門さんはこちらにまかせっぱなしにはしなかった。自分がやり始めたことには一切の妥協をしない姿勢に、私も頑張らねばと何度も思った。そうして二冊目の本『がんでも私は不思議に元気』も一緒に作ることができた(このときも長いメールを沢山いただいた)。
「遺言として聞いてほしいのだけど、この二冊に関しては、私が死んでも、どんな手を使ってでも売って欲しいの」。
 今年の二月、電話口で聞いたこの言葉に、私は非常に驚いた。「やることが沢山あるから生きていなきゃ」といつも言っていた絵門さんが、自らの死を前提に話すのは聞いたことがなかったからだ。相当体が辛いのだろうと思うと同時に、絵門さんが著書に大変な誇りを持っていることを再確認し、その仕事に少しでも関われたことを嬉しく思った。
 すべてにおいて一生懸命で妥協をしないのは、絵門さんの生き方そのものだったように思う。その姿に、周りの人間は励まされ、元気づけられた。絵門さんがいなくなって、とても寂しい。
(一冊の本 2006年6月号 特集・絵門さんの「闘い」より)


ゆう子さんへ 坂本歩



 二〇〇六年四月六日木曜日。ゆう子さんが亡くなったことを知った。その日は夜更けを過ぎても眠れず、ようやく眠れた明け方に、母が枕元に立って私の顔を覗き込み、「あいちゃん、あいちゃん」と涙目で何か言おうとしていた。悲しい夢でも見たのかなと思っていると、「ゆう子さんが死んじゃった」って。
 その後は「嘘、嘘、嘘……。」と連発していた。TVをつけると暫くしてチラッとゆう子さんが映った。それでもまだ寝ぼけているのか、何かの間違いではないかと思った。だって二週間前に電話をもらったばかりで、確かに体はだいぶ辛い話はしていたけれど、やっと少しずつ調子をとり戻して、「今日のお昼はナスとトマトのパスタを作って食べたのよ。舌がおかしくなっているから、お塩だけちょっと入れてね」といつもの綺麗な声で話していたのに。「夏には一緒に本を出すのよ、歩さん」って約束したのに。「90歳でお茶しましょう」でしょう、ゆう子さん。ゆう子さん、ゆう子さん……。
――ひまわりのようなゆう子さん――
「私、来年双子の赤ちゃんを産む夢を見たのよ」とウキウキ話してくれたゆう子さん。いつも明るく素敵な声で励ましてくれたゆう子さん。時には家族にも話せないような、同じ病気の患者仲間だから話せるような事も語りましたね。それからよく、健一郎さんとのほのぼのとしたエピソードをおもしろおかしく聞かせてもらいました。
 実際にゆう子さんにお会いした最後の日になってしまったのは一月二十四日。その日は偶然ゆう子さんの亡くなられたお母様のお誕生日でした。そんな特別な日に、学生時代からのお友達や妹さん、同じ病気で頑張っている仲間が集まる事ができてとても嬉しいと言ってどんどんテンションが高くなり、お友達や健一郎さんに時々ブレーキをかけられながらも、ワンマンショーのようにおしゃべりが止まらず、はしゃぐゆう子さんの姿が今でも目蓋に焼きついています。腹水や胸水が溜まって呼吸も苦しかった私も、久しぶりに思いっきり笑わせてもらい、楽しい時間を過ごすことができました。私はゆう子さんに会いたい一心で、ゆう子さんの事務所へ連れて行ってもらうと、半年ぶりの再会でお互いによくここまで頑張ってきたよね、という気持ちから思わず二人して涙ぐんでしまいましたね。そして大きなお腹を抱えた私を真赤なソファに横たわらせて、私の靴下を脱がせてマッサージをしてくれながら、他のお客さんの接待もしていたゆう子さん。ゆう子さん自身がかなり肝臓が腫れていて苦しく、数日前もあまり食事ができなくて歩くのも辛い状態だったのに、私や仲間への気遣いを忘れなかったですよね。
 ゆう子さんに初めてお会いしたのは一年半前の十一月。聖路加国際病院に入院していた私の病室。私も乳がんからの骨転移とわかってからゆう子さんより更に長い二年という歳月を代替療法だけに賭け、歩けない、座っていられない、呼吸も苦しいという酷い状態になってからの緊急入院でした。抗がん剤治療を受け始めたある夜、眠れぬままに病室のベッドからゆう子さんのHPのアドレスに初めてメールをすると、翌日早速、「明日抗がん剤の点滴の日なので歩さんの病室に伺いますね」という返信をいただきました。あの日は一番お気に入りのパジャマを着せてもらい、リハビリもそこそこに病室へ戻ってゆう子さんを待っていました。ゆう子さんが会いに来てくれると思っただけで免疫が上がった実感がありました。点滴棒を引っ張りながら颯爽と現れたゆう子さんは、首のプロテクターをしていなければ、とても病気とは思えないほどお元気そうで溌剌として輝いていて綺麗でした。あの時も初めて会ったのに、「昨日、足のマッサージの勉強をしてきたのよ」と言って私の足を揉んでくれて沢山お話をしました。うれしくて更に免疫が上がった感じがしました。翌日、病院の廊下を自力で三周歩くことができたのは、ゆう子さんがパワーをくれたおかげです。元気になるイメージを具体的に持つ事の大切さを教えてくれました。
 退院後、酷い鬱で生きる気力を失っていた私に「命のロープ」を投げて引き上げてくれたゆう子さん。いつも断崖の上から声をかけて励まし、足のかけ方も教えてくれました。昨年の冬からは断崖も更に険しい氷壁になり、何度もダメかと思ったけれど、ゆう子さんに助けてもらい、春を迎えてやっと崖の上に足をかけてよじ登ろうとしたら、私だけではなく大勢の仲間を力一杯引き上げようと頑張っていたゆう子さんが力尽きてしまった。
 具合が悪くなってもゆう子さんは、「私がダメになったら、皆ががっかりしてしまうからー」と言って頑張ってくださったのですね。
 だから、ゆう子さんが天に召された事を嘆き悲しんで、また崖下に落ちてしまっては、ここまで引き上げてくれたゆう子さんに申し訳ないですね。ゆう子さんが命を賭けて医療に携わる方々に訴えてきた事、子供達に語りかけてきた事、そして私達多くの患者仲間に与えてくれた勇気と希望と元気は尊く、皆の心の中に永遠に生き続けると思います。
 今でも電話のベルが鳴ると、「歩さん?」というゆう子さんの美しい声が聞こえてくるような気がしている私には、ゆう子さんが大好きなお母様やお友達と一緒にいて、あのひまわりのような笑顔でおしゃべりしている姿が見える気がします。


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