絵門さんの「輝き」と「闘い」 朝日新聞社会部 上野 創
「第一印象は『わがままな人』。その次は『人騒がせな人』でした」。
2006年4月。乳がんで亡くなった絵門ゆう子さん(49)のお別れの場で、聖路加国際病院のチャプレン(病院の牧師)は開口一番、そう話した。やや重かった礼拝堂の空気が、ふっとゆるんだ。
3年前、03年の年の瀬、病院に隣接するこの礼拝堂で絵門さんは朗読コンサートを開いた。管楽器の音色と自分の朗読で、入院患者さんを励ましたい。大事なのは日程で、限りなく年末に近くなければならないという。
礼拝堂のスタッフの都合を考えれば、早い時期が良いのは分かる。でも、大晦日も正月も、自宅へ帰れない患者さんたちのためには、できるだけ年末近くにしたい。自身も前年、がんの転移による首の骨折と呼吸困難で運ばれ、この病院で年を越した。正月を病院で過ごす寂しさを少しでも和らげたいからと、チャプレンに対して言ったという。
「ほかの患者さんのことを思うと、ここで私はわがままにならなければならないんです、とのことでした。悪い意味で使う言葉ですが、私の中で、『わがまま』のイメージが少し変わりました」とチャプレンは語った。
そう。絵門さんはそういうまっすぐな人だった。自らががん患者だからこそ、ほかの患者の心に寄り添おうとする。そして正しいと思ったら一直線。目標を定めて突進する。「人騒がせ」でチャーミングな人だったなあ、と列席していた私は思い出していた。
NHKのアナウンサー(当時は「池田裕子」)からフリーになって活躍していた絵門さんが乳がんと診断されたのは、2000年10月。手術と抗がん剤の治療を示されたが、「考える時間がほしい」と言ったまま、2度とその病院には行かなかった。同じ乳がんをわずらった最愛のお母さんが、治療が進むとともに衰弱して亡くなったのを見て、西洋医療への激しい不信を抱いたからだ。
病院から離れた彼女は、いわゆる民間療法を転々とさまよった。中には、草の粉をといて患部に貼る治療法、宇宙力エネルギーで治癒に導く布団、ピラミッドパワーの温灸器といった不思議なものもあった。憑かれたように渡り歩いた1年余りの間にがんはあちこちに転移、骨折と呼吸困難で聖路加に駆け込んだという経緯だった。
そこで出会った中村清吾医師は、絵門さんの西洋医療不信をいっぺんに氷解させた。患者の言葉にじっくりと耳を傾け、治療を押しつけない姿勢、「がまんしちゃったんだね」「ダメなんてことないよ」という共感に満ちた言葉。そして、あれほどいやがっていた病院での治療を受ける気持ちになり、抗がん剤も受け入れるようになっていった。
みるみる快復していった絵門さんは、03年5月、体験を最初の著書『がんと一緒にゆっくりと』(新潮社)にまとめ、世の中への発信を開始した。重い体験なのに、ユーモアがあちこちにちりばめられていて読みやすい。がん患者を取り巻く医療や社会の環境を変えたいという思いもあふれていた。
実は、私もがん経験者だ。
手術、抗がん剤治療から転移、再発、鬱まで、一通り体験している。だから彼女の書いていることに、いちいち共感を覚えた。そして、がんを抱えて生きるこのチャーミングな女性の日々の体験と喜怒哀楽を新聞の読者に届けたいと思った。こうして始まったのが朝日新聞東京版、毎週木曜日のコラム「がんとゆっくり日記」だった。
あちこちにがんの転移があり、リアルタイムで抗がん剤で治療を受けている患者自身の新聞コラムは、異例中の異例だった。「朝刊開いてがんの話で大丈夫か」という声もあったが、私は必ず読まれると信じていた。予想通り亡くなるまでの2年半、読者の熱い反応に支えられ、90回以上にわたって掲載が続いた。
転移が進んだがん患者には、死のイメージがつきまとう。でも彼女は、常に生きようとしている姿勢をコラムで表現していた。患者やその家族に対しては「今、生きていることを見つめましょうよ」、健康な世の人々には「死にゆく人として見るのはやめてね」というメッセージをはっきりと伝えた。
コラムが始まったあと、彼女の活動の幅はぐんぐん広がっていった。祖母をモデルに童話を書き、白血病の少女と一緒にストーリーを練って絵本を作り、朗読コンサートをあちこちで開催。幾多の講演、テレビや雑誌の取材をこなし、小学校や病院、医療者の卵の前でも朗読や話をした。がん患者向けのカウンセリングを始め、患者同志のふれあいの場を設け、フルートを習ったり、詞を書いて歌をつけてもらい、CDを出したり。
私を含め、がんになってもこんなに色んなことができるのか、と驚いた読者も多かったし、「自分もがんばろう」と勇気をもらった患者や家族はもっといただろう。
同時に、悟りを開いた「優等生」ではなく、不安や怒りを家族にぶつけてしまったり、かなたに見え隠れする死におびえて心が激しく揺れたりする自分がいることも、正直に書いた。
そして患者同士のふれあいがどれだけ励ましになるか、医療者の言葉が良くも悪くもどれほど患者にとって大きな力を持つか、闘病するうえで「希望」がいかに大切か、といったことも伝えた。
コラムには、夫の三門健一郎さんがちょくちょく登場した。
随所に「わがまま」を発揮し、正義感のかたまりで泣き虫、しゃべり出すと止まらない絵門さんを、ドンッと受け止めた三門さんの様子がコラムから伝わってきた。三門さん本人は「そんなたいそうな者じゃありません」と言うが、彼女がいかに支えられているかがよく分かった。
それは、大切な人が病気になってしまった読者を大いに励ましたことだろう。腫れ物に触るように扱う必要はない。不確定な未来におびえることなく、治ることを信じてそばにいてあげるだけでいい、という絵門さんのメッセージがそこにはあった。
週1回のコラムを2年半も書き続けるのは、きわめて大変なことだ。何度か「次回は少し休みますか」と持ちかけたことがあったが、いつも「大丈夫です」「休まなくていいです」という返事だった。コラムが1年続いたとき、「隔週にすることもできますよ」と伝えたが、「ぜひこのままやらせてください」とのことだった。
彼女は他人から期待されることでエネルギーを倍増させる人だったと私は思う。コラムや朗読、講演、取材依頼は、絵門さんにとってある程度の負担と、それを上回る生きるうえでの柱になっていたのは間違いない。
かつて、「急に具合が悪くなってドタキャンしたらどうしよう。今は元気でも、数カ月や半年先の当日になったら行けない状態なんてことになったら」と不安を抱いたときもあったそうだ。でも、「先のことは誰も分からない」と開き直った後には、依頼をどんどん引き受けるようになった。
そして、「がん患者だからって、何も出来ない人間ではない。むしろこちらが出来ることについては、大いに期待してほしい」と発言するまでになった。
ただ、まぶしいほど輝いていた日々はまた、「闘い」の時間でもあったと思う。
がん患者への社会の偏見、頑健な人優先のような世の中の生活環境、一部に残っている心ない医療者のふるまい、患者を食い物にする民間療法の悪徳業者など、闘う相手はさまざまだったが、その最たるものは、亡くなる約半年前に、「抗がん剤の投与をしばらくストップし、自分なりの方法で完治を目指す」と決断したあとの葛藤だと思う。
絵門さんには、抗がん剤が劇的に効いた。が、ある時期から効きづらくなっていった。
がんを抗がん剤や放射線で治せる時代になってきたが、あちこちに散らばったがんの場合、ある程度まで効果のあった薬が途中で効かなくなる場合がある。その薬が効きにくいがん細胞が残り、勢いを増していってしまうのだ。
そうなったら別の抗がん剤を使う。それも効かなくなったら、さらにほかの薬。さらに……、という具合だ。
絵門さんはこれを「エンドレス」と表現した。根治できないとしても生活の質を保ちながら病気と共生して生きるのが、がん治療の一つの現実だが、いつまでも薬から解放されないで生きる道に彼女は強い疑問を抱いていた。多くの「戦友」を見送ってきた経験も影響した。
絵門さんは西洋医療から逃げて病気が進行し、西洋医療に命を救われて活躍することができた。でも、その医療の限界も見えてきたとき、まだ使える抗がん剤がある段階で投与をやめるという決断をした。2冊目の著書『がんでも私は不思議に元気』(新潮社)にも、コラムの中でも、熟慮の末に自ら選んだことだと書いている。
どんな薬にも作用と副作用があるが、抗がん剤は特に体に対する毒性が強い。こうした毒物をずっと摂取し続けることに抵抗を感じていたという。完治を目指すならいいが、「共生」のために薬漬けになるのなら、自分の信念とは合わない。いつかは薬をやめ、自分の治癒力を高めることで治す方にシフトしたい。それが熟慮の中身だった。
もちろん「死を受容した」わけではない。むしろ、常々コラムや著書で書いていたような「生への執着」の表れだった。
自らに備わっている治癒力に賭けた後、薬の副作用や「信念とのギャップ」からは解放された。同時に、がんが広がってしまうのではないか、決断は間違っていたのではないかという不安も引き受けることになった。この不安感との闘いを想像すると、胸が苦しくなる。さらに発信を続けてきた以上、自分の決断が多くの患者に影響を与えることも分かっていて、どのように受け止められるのか心配だったと想像する。
大変な決断だった。その半年後、結果として彼女は逝った。ただ、正しかったのか、間違っていたのか、という議論にはまったく意味がないと私は思う。
絵門ゆう子さんは最期まで、自分らしく生きようとした。「わがまま」で「人騒がせ」というチャーミングな一面を発揮したとも言える。なるほど、彼女らしいじゃないか。
聖路加の礼拝堂でチャプレンの話を聞きながら、私はそういうことを思っていた。
「生きる」というのは、選ぶこと、決断することだ。絵門さんはそれまで生きてきたように、自分の責任において、信念に基づいて選んだ。私は彼女と別れた寂しさ、悔しさを抱きつつ、その選択と決断の大きさをかみしめている。
(一冊の本 2006年6月号 特集・絵門さんの「闘い」より) |